田丸稲之衛門の系統について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:29 UTC 版)
「田丸氏」の記事における「田丸稲之衛門の系統について」の解説
戦国時代初期の伊勢守護・北畠政郷の四男・顕晴が度合郡田丸城に入り、田丸の苗字を称したことにはじまる。以降、田丸氏は初代田丸顕晴以下、歴代当主により田丸御所の尊称が継承され、北畠氏の一門の三大将として重きをなした。 しかし、顕晴は伊勢国の国人・関氏との戦いの最中、家臣である池山氏の謀叛に倒れ、家督はその子、田丸具忠が継承した。やがて、田丸具忠が老齢で隠居すると、その子・田丸直昌が家督と田丸城を継承した。直昌は織田信長の子の織田信雄の家臣となり、旧主であり一族でもある北畠氏一門の暗殺を命ぜられ、田丸城にて旧主一族を殺害した。やがて、直昌は羽柴秀吉の傘下となり、その重臣・蒲生氏郷の姉婿であることから、蒲生氏の家臣となる。蒲生氏が陸奥国会津に90万石を与えられると、直昌は3万石を与えられ須賀川城主となった。 その後、直昌は葛西大崎一揆や九戸政実の乱に出陣し、戦功により5万2000石に加増となり、森山城主に転じた。主君氏郷が死去するとその子の蒲生秀行に従い、秀行が宇都宮城18万石に転封となると、直昌は信濃国川中島城主に封ぜられた。その後、徳川家康の命で美濃国岩村城に移り、4万石の封を得た。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に参陣し、西軍が敗れると敗将として越後国に流された。田丸直昌は出家したものの、その長男・田丸直茂は赦免され、蒲生家に帰参した。しかし、蒲生氏が断絶すると、浪人して加賀藩前田氏に仕えた後、江戸幕府の旗本となった。また、直昌の次男に直綱という人物がおり、その三男 直次の女が水戸藩士に嫁いだとされる。直次の女が嫁ぎ先で生んだ子直行が、田丸姓を冒して、水戸藩士・田丸家が成立した。以降、田丸家は直行、直暢、直諒と続き、稲之衛門直允を養子とした。 北畠政郷-田丸顕晴-田丸具忠-田丸直昌-田丸直綱-田丸直次-女-田丸直行(水戸藩士初代)-田丸直暢-田丸直方-田丸直諒=田丸稲之衛門直允
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