田中自身の戦争責任感
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:12 UTC 版)
他人に対して好悪の感情の差が激しかった田中は、東京裁判で上司・同僚に不利な証言をしたというだけでなく、戦後期の著述でも様々な自説を論じている。そのため特に非難が集まりやすく、周囲の証言からだけでは、田中の人物像というものが見えにくくなりがちである。だが、東京裁判の終了直後の1949年(昭和24年)に田中が自殺未遂をした際の遺書には、下記の記述がある。 日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。 既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず。 この事から、田中自身も少なからず戦争の責任の一端を感じていた事が窺える。また、軍を退役する要因の一つとなった鬱状態を、晩年に再発させていた。 東京・青山の田中宅をインタビューのためにたびたび訪ねた秦郁彦は、田中が昼間でも暗くした部屋に閉じこもり、「武藤の亡霊が時々出てくる」と語っていたことを回想している。ただし、比較的近いころに田中を見舞ったと考えられる中部日本新聞社の平野素邦の記事にはそのような内容はみられない。田中はキーナンからアメリカ亡命の口約束を得ていたが、守られなかったという。
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