田中義一首相を叱責、内閣総辞職とは? わかりやすく解説

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田中義一首相を叱責、内閣総辞職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)

昭和天皇」の記事における「田中義一首相を叱責、内閣総辞職」の解説

1928年昭和3年6月4日起きた満州某重大事件張作霖爆殺事件)の責任者処分に関して内閣総理大臣田中義一は「責任者厳正に処罰する」と昭和天皇約束したが、軍や閣内反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は「それでは、前の話と違うではないか」と田中食言激しく叱責した。その結果田中内閣総辞職したとされる田中首相は、その後間もなく死去した)。 田中内閣時には、若い昭和天皇政治教育係ともいえる内大臣牧野伸顕指導のもと、選挙目当てでの内務省人事異動への注意など積極的な政治関与見せていた。そのため、軍人右翼国粋主義者の間では、この事件牧野らの「陰謀」によるもので、意志強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージ広がった昭和天皇政治への意気込み空回りしたばかりか、権威揺らぎすら生じさせることとなった。この事件昭和天皇は「その後政治的関与について、慎重になった」という。 なお『昭和天皇独白録』には、「『辞表出してはどうか』と昭和天皇田中義一首相に内閣総辞職迫った」という記述があるが、当時一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。 昭和天皇積極的な政治関与行った理由について、伊藤之雄は「牧野影響の下で天皇理想化され明治天皇イメージ憲政下における明治天皇実態とは異なる)を抱き親政志向したため」と、原武史は「地方視察即位後続発した直訴接した体験影響による」とそれぞれ論じている。

※この「田中義一首相を叱責、内閣総辞職」の解説は、「昭和天皇」の解説の一部です。
「田中義一首相を叱責、内閣総辞職」を含む「昭和天皇」の記事については、「昭和天皇」の概要を参照ください。

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