生い立ちと妻・弘子との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 16:04 UTC 版)
「高橋政知」の記事における「生い立ちと妻・弘子との出会い」の解説
福島県福島市にて太田政弘・タミエ夫妻の次男として生まれる。父・政弘は、旧制一高から東京帝大へ進み、貴族院議員まで勤め上げた内務官僚である。内務官僚時代には原敬に厚遇され、そのことが警視総監や福島県知事、台湾総督などを歴任することにもつながっていった。 政弘が福島県知事在職中、後妻であるタミエとの間に次男として生まれたのが「政知」であった。「政知」とは、父・政弘の「政」と知事の「知」から一字ずつもらい、付けられたものである。 父・政弘はかなりの酒豪としても知られ、政知は学生時代から父に酒の手ほどきを受けていたという。また、六尺二十貫という体躯からも想像できるように、喧嘩も強く、いつも政知に喧嘩の極意を言い聞かせていたという。後に政知を特徴付ける酒の強さ、負けん気の強さは、すでにこの頃から養われていた。 第一東京市立中学、山形高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部へと進んだが、戦争の影が政知のすぐ近くまで忍び寄ってきていた。1939年に大学を卒業後、父に反発する形で、理研コンツェルンの創始者である大河内正敏が経営する理研重工業に入社する。 入社の翌年には、当時富士製紙の専務に就いていた高橋貞三郎(1871-1934、岡山県後月郡高屋町出身、エール大学卒)の一人娘・弘子と見合い結婚。婿養子として高橋家に入り、「太田」から「高橋」に改姓した。かなりの資産家だった高橋家には数多くの見合い話が持ち込まれていたが、弘子の目に留まったのは政知だった。一方、政知自身は、自分を政治家の娘と結婚させたがっていた父親の機先を制するために、太田家に持ち込まれていた十数枚もの見合い写真のなかから一番の美女を選んだという。そのあまりの美貌さに妹は驚き、見合いの失敗を確信するほどであった。 高橋夫妻は、上海にあるフランス租界で暮らしていたが、政知はそこで赤紙を受け取り、一路ラバウルへと向かう。一緒に出発した輸送船三隻のうち、無傷でラバウルに到着できたのは、政知が乗った「平安丸」ただ一隻だった。残りの二隻は、アメリカ軍からの攻撃を受け、大きな被害を受けていた。このようなところにも、高橋の「強運」があった。戦後はオーストラリア軍の捕虜となるも、無事に復員した。
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