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高橋貞三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/04 14:03 UTC 版)

高橋 貞三郎
生誕 1871年(明治4年)
岡山県後月郡高屋町(現在の井原市
死没 1934年(昭和9年)
出身校 立教大学
イェール大学
職業 実業家
子供 高橋政知(婿養子)
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高橋 貞三郎(たかはし ていさぶろう、 1871年12月12日〈明治4年11月1日〉[1] - 1934年〈昭和9年〉2月26日)は、明治から昭和期の実業家三井物産大阪支店長を務めたほか、富士製紙(現在の王子製紙)専務取締役、樺太鉄道取締役、東京金鋼、北海道電灯などの重役を歴任した[1][2]

人物・経歴

岡山県後月郡高屋町(現在の井原市)出身[2]

東京へ出て、築地の立教学校(現在の立教大学)で学ぶ[3]。 24歳の時にアメリカに留学し、イェール大学を卒業した[1][2]。イェールの記録では、1897年に立教に学び、1900年よりイェールの大学院で社会科学を専攻、1901年に修士号を取得した[4]

帰国後1902年に三井物産に入社し、1913年(大正2年)には同社大阪支店長に就任した[1]

1915年(大正4年)に、富士製紙(現在の王子製紙)に転じて専務取締役に就任した[1]。 そのほか、東京金鋼、北海道電灯、樺太鉄道などの重役を歴任した[1]

昭和初期には、卒業生として、阪井徳太郎吉田栄右濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)らとともに、立教学院校友会の顧問を務めたほか、1928年(昭和3年)に設立された立教学院後援会でも監事役員を務めた[5]

1930年(昭和5年)には、イタリア王冠勲章(コンマンドール、クーロンヌ)を受章した[6]

故郷の岡山で、5万円を寄付して高屋町育英会を設立するなど資産家であった[2]

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 『高橋貞三郎』 コトバンク
  2. ^ a b c d e 歴史が眠る多磨霊園 『高橋貞三郎』
  3. ^ 立教史データベース 『校友会・校友消息』 立教学院学報第8号,1915年10月
  4. ^ イェールの日本人杉井六郎、同志社アメリカ研究、13号、1977-03-31
  5. ^ 『立教大学新聞 第72号』 1928年(昭和3年)12月5日
  6. ^ 国立公文書館 デジタルアーカイブ 『五位勳三等男爵』
  7. ^ 高橋貞三郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 外山知三徳富蘇峰記念館
  9. ^ 外山義達『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年



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