現代バリ芸術の父として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 15:16 UTC 版)
「ヴァルター・シュピース」の記事における「現代バリ芸術の父として」の解説
シュピースは画家としてはもとより、現代バリ芸術の父としても知られる。シュピースはドイツ語、ロシア語、英語、フランス語、オランダ語、ジャワ語、バリ語を流暢に操ることができ、彼のもとにはさまざまな国からの芸術家、学者が集まり、現地のバリ人とともに芸術サロンの中心を形成した。 シュピースらは、毎週土曜日にウブドの王宮前で観光客向けの土産物としてバリ人の描く絵画の品評会を開き、優秀な絵を買い上げ欧米のギャラリーや展覧会に出展したり、ホテルに売却などした。この過程から、バリ人たちは欧米人の好みを把握し、それを「バリの伝統」として受け入れ具体化していったのである。 1920年代末にシュピースはバリのガムラン音楽を録音し、ニューヨークのオデオン社からレコードとして出し、さらには、1931年のパリ植民地博覧会では、バリのガムラン音楽と舞踊団、美術・工芸品を出展するのに尽力するなど、西洋へのバリ紹介でも大きな役割を果たした。 そして、1936年に宗教儀礼劇としてのチャロナラン劇を観光客向けの商業用パフォーマンスとして組織させたり、サンヒャン・ドゥダリと呼ばれる宗教舞踊から観光用のケチャを創出・改良することにも深く関わった。このことからシュピースは、現代バリ芸術の父として知られる。 一方で、シュピースらは、極めて安い経費で、宮廷のような屋敷に住み、車をもち、召使いを雇うなど、普通のバリ人から見れば王侯貴族のような生活、すなわち「楽園」を享受しており、西洋人の目によって「バリのバリ化」を進めたことで本質主義者から否定的に評価されることもある。
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