王立師範学校時代(1869年 - 1874年)
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「レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「王立師範学校時代(1869年 - 1874年)」の解説
1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業したヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任。留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という。1873年、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。 1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである)。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた。
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