無限の宇宙の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:16 UTC 版)
「オルバースのパラドックス」の記事における「無限の宇宙の登場」の解説
古代ギリシャ早期の原子論者たちには宇宙を無限の広さをもつものとする考えがみられたが、アリストテレスやプトレマイオス以降、彼らの考えを引き継いだアラビアやヨーロッパでは、星々は天球の最外殻「恒星天」に貼り付いたものであると考えられてきた。 当然ながらこの有限の宇宙像ではオルバースのパラドックスにおけるような問題は発生しない。 無限の宇宙を復活させたのは16世紀のイギリスの天文学者トマス・ディッグズであった。 当時広まり始めたコペルニクスの地動説では、地球は太陽の周りを回るとされたが、恒星の年周視差は観測にかからず、恒星は非常に遠くにあるとみなさねばならなくなった。 広く読まれた一般向けの天文学解説書に1576年ディッグズはコペルニクスの新しい体系を解説した付録『天球の完全な解説』(A Perfit Description of the Cælstiall Orbes)を付し、天球の代わりに無限の宇宙に星々が無数に散らばるとの宇宙像を導入した。 このさりげない無限の宇宙像の復活とともに夜空の暗さもまた説明が必要なものとなった。 ただしディッグズは無数の星々のほとんどが「我々には見えない驚くほどの距離」にあるため、単に無数の星の輝きを見ることができないのだとしている。 ここでは距離による星々の数と明るさの打ち消しあいの関係はまだ認識されていない。 地動説に賛同しその惑星の運動を解明した著名な天文学者ヨハネス・ケプラーは、一方で神秘主義的な考えに固執し「恒星天」の考えを堅持した。 ケプラーにとって、ディッグズやジョルダーノ・ブルーノ、あるいはウィリアム・ギルバートらによって広まりつつあった無限の宇宙という考えは、太陽の特権的地位をおとしめるものであった。 1611年にガリレオの『星界の報告』を讃えた手紙の中で、ケプラーはこの夜空の暗闇の問題に言及している。 そこにおいて、夜空の暗さこそ宇宙が有限であることを証明する証拠のひとつとされた。 その論証においてケプラーは星々が太陽と同じ性質のものなら「すべての星々を全部一緒にしても、最も近いところにすら大層ほの暗い光しか送ってこないのはなぜだろうか」と問うている。 ケプラーはこれに自ら答えて、宇宙には全天を覆うほどの星が元々存在しておらず、ガリレオが望遠鏡によって発見した暗い数多くの星々は、遠くにあるのではなく他の星と同じ距離だが太陽よりもずっと小さく弱々しくしか輝いていないのだとみなした。
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