滝川での晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 00:24 UTC 版)
1889年(明治22年)に48歳で官職を退き、上川開拓を志して駅逓を設置。岩見沢から旭川までの区間に5つの駅逓「美英舎」を置き、自身はその中間点の「第三美英舎空知太駅逓」、現在の滝川市に居を構えた。駅逓の経営は東京や札幌に持っていた土地や家屋を売却するほど資金がかかるものだったが、上川道路沿線の住民は着実に増えていった。駅逓で郵便事務を取り扱い滝川で最初の郵便局長となったほか、上川では牧場を経営、さらに日本酒醸造事業にも手を広げるなど、実業家として活躍した。しかし実務を他人に任せきりだったために部下の不正で廃業に追い込まれ、自宅を含めた全資産を失う。古物商として再起し、農園を経営していた養嗣子宜茂の力を借りながら、滝川で初となる稲作に着手、さらに味噌醤油の醸造や養蚕業も始めてゆく。 しかし1898年(明治31年)の空知川水害によって事業は全て流され、再び全財産を失ってしまう。その後は運送業を立ち上げ、馬具商を経て運動具店を開業。経営を宜茂に託し、学校建設や警察、衛生組合の結成など、滝川村の発展に私財を投じた。1922年(大正11年)に死去し、滝川村初の村葬を受けた。
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