渡宋計画とは? わかりやすく解説

渡宋計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:06 UTC 版)

源実朝」の記事における「渡宋計画」の解説

建保4年1216年5月20日一首和歌と共に恩賞少なさ愁いた紀康綱に備中国領地与える。詠歌感じた故という。6月8日東大寺大仏再建行った宋人の僧・陳和卿鎌倉参着し「当将軍権化再誕なり。恩顔拝せんが為に参上企てる」と述べる。15日御所対面する陳和卿実朝三度拝み泣いた実朝不審感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山長老たり。時に我その門弟列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れ高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた6月20日権中納言に任ぜられ、7月21日左近衛中将兼ねる。9月18日北条義時大江広元密談し実朝昇進早さ憂慮する20日広元義時使い称し御所訪れて御子孫繁栄為に、御当官等辞した征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将兼ね給うべきか」と諫めた実朝は「諌めの趣もっともといえども源氏正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからずしかればあくまで官職帯し家名挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せ退出し、それを義時伝えた11月24日前世居所信じる宋の医王山拝す為に渡宋を思い立ち陳和卿唐船建造命じる。義時広元頻りにそれを諌めたが、実朝許容しなかった。建保5年1217年4月17日完成した唐船由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利請来しており、円覚寺舎利殿祀られている。また渡宋を命じられ葛山景倫は後に実朝為に興国寺建立したという。

※この「渡宋計画」の解説は、「源実朝」の解説の一部です。
「渡宋計画」を含む「源実朝」の記事については、「源実朝」の概要を参照ください。

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