済法寺時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 09:50 UTC 版)
ある日、備後三原城主・浅野甲斐守が床の間の掛軸を変えるために絵師を呼んで絵を描かせた。絵師は太陽を背に羽ばたく一羽の雁を描いたが、甲斐守は喜ぶどころか「雁は群れをなして飛ぶもの。一羽で飛ぶとは謀反の兆しであり縁起でもない」と機嫌を悪くしてしまった。絵師も家臣も困り果ててしまったが、たまたま三原城へ参殿していた物外がその絵に「初雁や またあとからも あとからも」と賛を入れた。物外の賛を読んだ甲斐守の機嫌はたちまち直り、絵は無事床の間に飾られることになった。 嘉永元年(1848年)、文人画の名手として知られた貫名海屋が物外を訪問して力業を見せてもらいたいと頼んだ。物外は寺の裏の竹林に入り、素手で竹の枝葉をしごき落とし、指先で拉いで襷掛けし、門人と剣術をして見せた。次に、物外の腰に船のとも綱を巻き付け、4人の相撲取りにをこれを持たせて力の限りに引っ張らせたが、物外はビクともしなかったという。 同じころ、九州から武者修行者が済法寺へやってきた。和尚と対面してお茶を喫み、雑談をしていたところ、武士はいきなり手にした茶碗を鷲づかみにして、砕いてみせた。そこで物外が自分の茶碗を指3本で3度回し、指先で茶碗を微塵に砕いて見せたところ、武士は降参して帰った。 済法寺の門前に高さ2尺余、幅3尺、長さ7尺ほどの花崗岩の手水鉢がある。ある日、物外が中庭の掃除をしているとき、ひとりの武者修行者が訪ねてきた。「物外和尚は御在宅でござるか」と聞くので、またか、と面倒くさくなった物外は、「ただいま不在であります」と答え、左手で手水鉢の一角をもち上げ、右手の箒で石の下のゴミを掃き出した。見ていた武士は驚いて退散した。 尾道では、船着場の仲仕たちと賭をして、米俵16俵を一肩で担いだという。尾道から大坂に向かう荷船を海中で引き留め、舞子の浜まで引き上げて乗せてもらったという話もある。
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