清水建設時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:30 UTC 版)
1947年3月、神奈川県立厚木中学校(現・神奈川県立厚木高等学校)卒業。1951年に旧制横浜工業専門学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業後、自動車メーカーへの就職を希望したが、当時の自動車業界は不況のため新卒者を採用せず、教師の勧めで清水建設を受験することとなった。桜井自身はこの会社に興味があったわけではなく、「受験者ゼロでは翌年以降の求人に関わる、受かるわけないし受験だけでいいから」と言う学校側の事情と、「日当と弁当が出る」という条件につられて受験することになった。 「挑戦的な性格」と自他共に認める桜井は、面接では言いたい放題で「当然受かるわけがない」と気楽だったが、清水建設側は桜井に内定通知を送った。桜井はあわてて学校側に抗議するが、内定拒否などすれば受験者ゼロより悪影響なのは明らかで、学校側は「自動車会社からの求人があったら、真っ先に連絡する」と約束して説得。結局、桜井は清水建設に入社する。 東京駅近くの現場を担当することになった桜井は、その研究熱心な性格と、もともと機械を専攻していた技術力から、自動的にセメントをこねてコンクリートにする機械(バッチャープラント)を発明し、この現場にて使用する。これにより、工期を大幅に短縮した桜井は清水建設の社内での評価を急上昇させる。 続いて担当した現場では、バッチャープラントを設置するスペースがなかった。桜井はアメリカですでに使われていたコンクリートミキサーをトラックのシャシーに載せることを発想し、国内では初めてのコンクリートミキサー車(生コン車)を完成させる。そしてこの現場も、従来の工期より早く完成を迎えることができた。
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