海軍軍縮の破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「第二次世界大戦の背景」の記事における「海軍軍縮の破棄」の解説
イギリスとドイツによる建艦競争は第一次世界大戦の一因ともなったが、第一次世界大戦後も各国は大規模な建造計画を推進した。しかしながら建艦競争は各国にとって経済的に大きな負担であり、海軍の軍縮は列強にとって避けることのできない問題であった。アメリカ・イギリス・日本を中心とする主力艦(戦艦・空母)に関するワシントン会議に始まり、補助艦艇に関するロンドン会議を経、各国は「海軍休日」ともいわれる日々を送った。 しかし、特にロンドン軍縮条約の結果に大きな不満を持った日本海軍では統帥権干犯問題が発生し、最終的には第2次ロンドン会議には参加することなく条約期間の終了に伴う廃棄通告で海軍休日は終わりを告げた。無条約時代となった1937年より再び建艦競争が始まった。アメリカは「第2次ヴィンソン案」により海軍力25パーセント増強、「第3次ヴィンソン案」により同11パーセント、さらに「スターク案(両洋艦隊法)」により同70パーセント増強という大規模な建艦計画を矢継ぎ早に打ち出した。 日米海軍力比は急速に悪化して昭和16年度の対米80パーセント超から昭和19年度中に同25パーセントの劣勢に陥ると予測された。軍縮条約破棄によりかえって日米の軍事バランスは悪化し、アメリカの建艦計画に追随しきれない日本海軍は深刻な危機感を抱いた。日本海軍内では、戦力バランスが完全に不利になる前に対米開戦すべきという議論が持ち上がり、太平洋戦争の開戦時期を決定する上で大きな要因の一つとなった。
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