浦上四番崩れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:40 UTC 版)
1869年(明治2年)、マキたちはキリスト教弾圧「浦上四番崩れ」により、岡山県の離島、キリスト教徒の受難地である鶴島へ送られた。マキたちは殉教の覚悟で、ほぼ着の身着のままで、家も田畑もそのままで村を出た。 鶴島ではマキたちは、荒地の開墾に加えて、拷問や飢餓などの苦難に耐えた。食事は毎食、小さな器の粥1杯のみで、皆が栄養失調に苦しんだ。空腹時は、海岸で海藻や貝をとって飢えを凌いだ。この最中、1871年(明治4年)にマキの父、妹が相次いで死去した。 1873年(明治6年)に禁制が廃され、浦上山里村へ帰郷した。拷問、飢餓、病気による死者は600人を超え、帰郷できたのは約3千人であった。
※この「浦上四番崩れ」の解説は、「岩永マキ」の解説の一部です。
「浦上四番崩れ」を含む「岩永マキ」の記事については、「岩永マキ」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から浦上四番崩れを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から浦上四番崩れ を検索
- 浦上四番崩れのページへのリンク