沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長として
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沼津兵学校附属小学校は廃藩置県により、明治4年(1871年)11月に沼津小学校と改称されたが、これまでどおり徳川家によって経営された。明治5年(1872年)8月に学制が頒布され、これまでの小学校は廃止されることになり、沼津小学校は徳川家に代わり江原素六等により管理された。学制頒布により全国に学区制が定められたが、江原素六の斡旋により、他地域に先んじて明治6年(1873年)1月に沼津小学校は公立小学校集成舎として引き継がれた。 沼津兵学校が東京に移設され空白となった沼津地方の教育の対策として、江原素六は集成舎に正則科(小学校)と変則科(中学校)を設立した。英語や数学が重視され、教科書を編纂し使用した。外国から教師としてグッドマン、キーリングを招き教育にあたらせた。明治8年(1875年)11月、集成舎の監理者であった江原素六は駿東・富士両郡の正副区長を招集し中学校設立を協議し、翌明治9年(1876年)8月に変則科を集成舎から分離を決定。第二大学区第十四番中学校として独立させ、静岡県最初の中学校となった。開校から明治15年(1882年)4月に辞任するまで校長は江原素六であったが、途中明治14年(1881年)4月学校寄宿舎の炊事場から出火し、校舎を全焼してしまい、書籍や器具類を焼失した。なお、明治18年(1885年)に文部省方針として全国の県立中学校は一県一校制をとることとなり、翌明治19年(1886年)に静岡に中学校を統合し、沼津中学校は廃止された。
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