沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長としてとは? わかりやすく解説

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沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:56 UTC 版)

江原素六」の記事における「沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長として」の解説

沼津兵学校附属小学校廃藩置県により、明治4年1871年11月沼津小学校改称されたが、これまでどおり徳川家によって経営された。明治5年1872年8月学制頒布され、これまでの小学校廃止されることになり、沼津小学校徳川家代わり江原素六等により管理された。学制頒布により全国学区制定められたが、江原素六斡旋により、他地域先んじて明治6年1873年1月沼津小学校公立小学校集成舎として引き継がれた。 沼津兵学校東京移設され空白となった沼津地方教育対策として、江原素六集成舎に正則科(小学校)と変則科(中学校)を設立した。英語や数学重視され教科書編纂し使用した外国から教師としてグッドマンキーリング招き教育にあたらせた。明治8年1875年11月集成舎の監理であった江原素六駿東富士両郡の正副区長招集し中学校設立協議し、翌明治9年1876年8月変則科を集成舎から分離決定第二大学区第十四番中学校として独立させ、静岡県最初中学校となった開校から明治15年1882年4月辞任するまで校長江原素六であったが、途中明治14年1881年4月学校寄宿舎炊事場から出火し校舎全焼してしまい、書籍器具類を焼失した。なお、明治18年1885年)に文部省方針として全国県立中学校は一県一校制をとることとなり、翌明治19年1886年)に静岡中学校統合し沼津中学校廃止された。

※この「沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長として」の解説は、「江原素六」の解説の一部です。
「沼津兵学校附属小学校・集成舎の監理者、沼津中学校の校長として」を含む「江原素六」の記事については、「江原素六」の概要を参照ください。

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