沼津兵学校の頭取監督として
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「江原素六」の記事における「沼津兵学校の頭取監督として」の解説
慶応4年(明治元年)徳川家の新しい領土が駿河の地に決まると、旧幕臣の授産と西洋文化活用のため、阿部邦之助と江原素六は徳川家の新領地内に兵学校の創設を働きかけた。明治2年(1869年)に江原素六は静岡藩小参事となり、静岡藩の軍事掛と沼津兵学校掛を命ぜられた。沼津兵学校の頭取にはオランダに留学経験のある西周が付き、技術的学科だけでなく基礎的な西洋の学問として、英語・仏語、数学の微分・積分までが取り入れられた。また、沼津兵学校には附属小学校が設けられ、一貫教育を目指した。 沼津兵学校は当初徳川家兵学校と称したが、明治2年(1869年)7月の版籍奉還の後、沼津兵学校と改称された。明治3年(1870年)、主要な教授陣が沼津兵学校から政府へ出仕する中、太政官は海外視察のため、視察団員を13の大藩に2名ずつ選出させた際、素六も静岡藩より選出された。視察団は、明治4年(1871年)4月にサンフランシスコ上陸後半年アメリカに滞在し、大部分の者がヨーロッパ視察に行く中、素六は日本へと帰国した。帰国の際には、余った旅費で書籍・器械・商品見本を購入し持ち帰った。書籍は、沼津兵学校の生徒たちに与えた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県に伴い、兵学校は政府に献納された。
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