河口信任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 16:46 UTC 版)
元文元年(1736年) - 文化8年(1811年)。諱は信任、字は道五、号は閑春。 肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)に生まれる。藩主の土井利里、利見、利厚に仕える。幼名は辰之助で通称は忠左衛門。宝暦12年に長崎で栗崎道意に入門して栗崎南蛮外科を修め信任と改名。 土井利里が京都所司代になった時に随行し、荻野元凱に入門。京都で山脇東洋の腑分を知り、衝撃を受けた河口は、京都の西郊で元凱とともに刑死体を解剖し、体親に重きを置いた山脇派に対して、頭部の解明を行い、脳と眼球の子細を『解屍編』に纏めた。これは明和6年(1769年)のことで、江戸で杉田玄白らが腑分を見た時期よりも2年も早いことになる。 落主の古河移封に随い、以来代々古河に住んだ。古河藩医となり、古河藩家老・小杉家と親しくする。本成寺にある信任の墓は、古河市指定文化財となっている。
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