河口信寛
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文政12年(1829年) - 明治39年(1906年)。号は杏斎、枕河。 杉田成卿塾に入門し、1年間学ぶ。次いで伊東玄朴について蘭方医学を学んだが、安政4年(1857年)に蕃書調所に修学。文久3年(1863年)幕府医学所種痘役増員に際し、種痘の鑑定役六名の一人に「杉田杏斎」として名を連ねる。種痘所・種痘館(東京大学医学部の前身)にて教授となる。 晩年は古河藩医を辞職して家督を弟の信久に譲り、漢学者の大沼枕山に学び、古河鳥見町に住居し漢学塾を開いた。
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