汪養然事件とは? わかりやすく解説

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汪養然事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 23:38 UTC 版)

汪養然事件(おうようねんじけん)とは、中華人民共和国によるスパイ事件[1] [注釈 1]イギリス領香港において手広く中国貿易を行っていた汪養然が、中国情報機関の指示を受けて、日本軍事産業技術関係等の情報収集活動を行った諜報事件[1][2][3]1976年(昭和51年)1月26日警視庁検挙[1]

概要

上海市に生まれ、その後イギリス領香港に渡って貿易業を始め、50歳代はじめには貿易商社3社を経営し、手広く中国貿易を行っていた香港在住の中国人、汪養然は、1971年(昭和46年)頃、中国情報機関員から「香港において中国と取引する中国人業者は、祖国の建設と祖国防衛に協力する義務がある」と迫られた[1][2][3]。情報機関員は、汪に対し、中国との貿易取引を継続する見返りとして、日本における軍事産業技術等の情報収集活動を行うよう指示した[1][2][3]。以後、汪養然は、貿易業務の一環であるよう装って頻繁に日本を訪れ、内妻の居宅をアジトとして日本人エージェント数人を利用しながら、

など、幅広い情報収集活動を行った[1][2][3]

警視庁公安部外事二課は、1976年1月26日、日本滞在中の汪養然(当時54歳)を逮捕した[1]。1976年2月16日東京簡易裁判所は貿易商汪養然に対し、外国為替及び外国貿易管理法違反で罰金20万円の判決を下した[1][注釈 2]

脚注

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注釈

  1. ^ 戦後、1950年(昭和25年)に貿易が開始された日中両国は、1962年(昭和37年)には「日中覚書貿易協定」が調印され、1972年(昭和47年)9月に、共産党政権との間に国交が樹立し、1973年2月、東京に在日中国大使館が開設された[2]1978年(昭和53年)8月には日中平和友好条約が締結され、1979年以降の改革開放政策等により、中国から大量の代表団や留学生等が来日するようになり、日本からも訪中者が増加するなど両国間の交流は拡大基調をたどったが、中華人民共和国は「日中友好」の陰で日本における情報収集活動等の対日諸工作をさかんに行ってきた[2]
  2. ^ 日本にはスパイ活動そのものを取り締まる法律が存在しないため、防衛秘密の漏洩を含むスパイ活動事件を取り締まることができないのが実情である。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 『戦後のスパイ事件』(1990)pp.45-46
  2. ^ a b c d e f 警察庁 (2004年7月1日). “第2章警備情勢の推移 対日有害活動1”. 警備警察50年『焦点』第269号. 警察庁. 2022年6月10日閲覧。
  3. ^ a b c d 中国による対日諸工作”. 『焦点』第273号「先端科学技術等をねらった対日有害活動」. 警察庁 (2008年2月29日). 2022年6月10日閲覧。

参考文献 

  • 諜報事件研究会 『戦後のスパイ事件』東京法令出版、1990年1月。 

関連文献

  • 外事事件研究会 『戦後の外事事件―スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版、2007年10月。ISBN 978-4809011474 

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