江西省政府主席へ
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1927年(民国16年)2月、熊式輝は江西省政務委員会会計長に任ぜられる。10月、第1師は第13軍に改編され、熊は副軍長兼第1師師長となる(まもなく第1師は第37師と改められ、引き続き師長を務めた)。11月、江西省政府委員を兼ね、12月には淞滬衛戍司令も兼任した。8月、第37師は第5師に改編され、引き続き師長を務めている。 1930年(民国19年)5月、熊式輝は江浙皖剿匪総指揮兼陸海軍総司令部参謀長に抜擢され、中国共産党(紅軍)討伐に従事する。翌1931年(民国20年)6月、国民政府軍事委員会委員長南昌行営参謀長に任ぜられた。ところが、まもなく熊は飛行機事故にあって負傷し、これが原因で前線の軍人としての活動を断念せざるを得なくなる。同年12月、江西省政府主席に任ぜられ、翌1932年(民国21年)11月、南昌行営弁公庁主任となる。1934年(民国23年)10月には江西全省保安司令も兼ねた。1935年(民国24年)10月、中国国民党第5期中央執行委員に任命された。 日中戦争(抗日戦争)勃発後も、熊式輝は江西省政府主席を引き続き務め、日本軍迎撃のための体制を整備している。1942年(民国31年)2月、江西省政府主席を免ぜられ、国防最高委員会委員に移った。5月には江西全省保安司令からも免ぜられ、10年余り務めた江西省の軍政の要職から完全に退くことになる。その後、駐米軍事代表団団長としてアメリカを訪れ、1943年(民国32年)7月、三民主義青年団第1期中央団部評議員に招聘された。同年秋、中央設計局局長に任ぜられている。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に再選された。
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