江西省の統治者へ
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1888年(光緒14年)、天津武備学堂第2期に入学する。1895年(光緒21年)に卒業すると袁世凱が創設した新建陸軍に配属され、督隊稽査先鋒官に任命された。1902年(光緒28年)、李純は馮国璋配下の提調に任命された。1903年(光緒29年)以降は、鉄良率いる京旗常備軍の下で昇進している。1907年(光緒33年)、第6鎮第11協統領に任命された。 1911年(宣統3年)4月、協都統位を授与された。同年10月、武昌起義が勃発すると、李純率いる第11協は第21混成協に改組され、馮国璋率いる第1軍に配属されて革命派の鎮圧に向かった。11月、李純の軍は漢陽を攻撃し、これを清朝側に取り戻す上で貢献した。 中華民国成立後、李純は第6師師長に任命され、河南省信陽に駐屯した。1913年(民国2年)7月、江西都督李烈鈞が二次革命(第二革命)を起こすと、李純は袁世凱から九江鎮守使に任命される。李純は李烈鈞を撃破して8月には南昌を攻め落とした。この功により、李純は署江西都督に任じられた。1914年(民国3年)6月には、昌武将軍の位を授与され、督理江西全省軍務に任命された。 1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むと、当初は李純もこれを支持した。しかし、同年12月に護国戦争(第三革命)が勃発して反袁世論が高まると、袁の皇帝即位に消極的だった馮国璋・段祺瑞に李純も追随する。1916年(民国5年)3月、馮の指示により、李純ら5省の将軍は袁に皇帝即位の取消しを勧める秘密電報を打った。同年6月6日に袁世凱が死去すると、翌7月に各省将軍は督軍となる。李純もそのまま江西督軍として留任した。
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