求道者は回心を先延ばしするか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:13 UTC 版)
「セカンドチャンス (キリスト教)」の記事における「求道者は回心を先延ばしするか?」の解説
賛成派は伝道的見地からも、セカンドチャンスを説く。「イエスは『すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ』、すなわち地上で生きたことのあるすべての人に福音が届けられなければならない、といわれた。そう言われたイエスが、福音を一度も聞くチャンスがなく世を去って『よみ』に行った魂に、無関心だったり、見捨てたりすることはあり得ない。よみの魂にも、何らかの方法で福音が伝えられ、回心の機会が与えられてよいはずである。実際多くの聖句が、死後の回心の機会の存在を示している」 ガブリエル・ファカーは、その著『聞いたことのない人はどうなの?』にこう述べている。「神の『聖なる忍耐強さ』(第二ペテロ3:9)により、福音を聞くことなく死んだすべての人々に、死後回心するための機会が届けられる」 反対派の「もしセカンドチャンスを説けば、未信者は『死んでから信じればいい』と、回心を先延ばしにしてしまうだろう』」という懸念に対しては、賛成派はこう述べる。「その懸念は不要である。単に死後に天国に行くことだけが福音ではない。神の導きのもとに人生を歩むことが、大きな祝福である。もし生きているときに福音を聞いたなら、生きているときに信じるのが最大の幸福である。また、地上で神の教えに生きることは『千代に至る 』家系的祝福をもたらす(出エジプト記20:6)。それをしっかり説くなら、求道者は『回心を先延ばし』にはしない」 「生きているときに主を信じれば、地上で祝福の中を歩み、死後は至福の天国へ行ける。しかし生きているときに信じなければ、祝福はなく、死後は暗い『よみ』にくだり、そこで長い間、かつて自分が地上で撒いたものを刈り取らなければならない。そこで福音を聞き、回心する機会があっても、実際に回心できるかどうかは別である。神の前に心は裸だからである。回心できたとしても、すぐに天国に行けるわけではない。このように、生きている間に信じるのと信じないのとでは、どちらがよいかは明白である。福音を聞いたなら、信じるのは当然早いほどよい。これが描き出されるとき、求道者は回心を先延ばしにはしない」 「『もし、福音を聞く機会がなかったことで信者になれなかった先祖には、もはや福音を聞く機会も救われるチャンスもないというなら、そのような不合理なキリスト教は信じるに値しない』と考える人が、日本や東洋には多い。そうした国での伝道にはセカンドチャンスの理解は欠かせない」 また、セカンドチャンスの信仰と伝道への熱意は「両立する」、なぜなら伝道は聖書が命じていることであり、恵みを受けた者が恵みを分かち合うのは当然だから、と語る牧師もいる。
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