段熲とは? わかりやすく解説

段熲(?—179年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 08:13 UTC 版)

涼州三明」の記事における「段熲(?—179年)」の解説

字は紀明。武威姑臧出身若い頃から弓馬習い遊侠耽っていた。成長する古学学び孝廉推挙され優れた才能示した。やがて遼東属国都尉となり、鮮卑討伐従事するようになった。彼は偽りの詔書でもって鮮卑誘き寄せ伏兵配置して散々に破ったが、詔書偽造の罪により2年間の労役刑を命じられた。156年司空尹頌の推挙により中郎将任じられ泰山郡琅邪郡暴れまわっていた賊の鎮圧赴くと、その首領討ち取って数万首級挙げた。これにより列侯封じられた。159年には護羌校尉となり、羌族討って2000首級挙げ翌年にも羌族撃退して1万超える首級挙げた。その翌年涼州刺史郭閎に陥れられて投獄されたが、すぐに冤罪だと判明して釈放された。164年には并州刺史・護羌校尉となり、武威郡張掖郡酒泉郡荒らしまわっていた羌族討伐に赴き、数千人を斬首捕虜とし、翌年にも数千人を斬首捕虜とした。この時、段熲は1年中戦い続けたので、羌族遂に飢えて亡したという。段熲はさらに攻勢をかけ、西羌破って23000首級挙げ1万超える村落降した167年には西羌武威郡攻められたが、段熲は追撃して首領を斬り、3000余り殺した168年、先討って8000余りの首を獲り、牛馬28頭を鹵獲した。桓帝死後には破羌将軍昇進した同年、さらに羌族討ち4000余り村落陥落させた。段熲はかねてより幾度も羌族徹底せん滅を主張しており、張奐らの融和政策批判していた。その為、張奐進言により朝廷から停戦命令下された際は、激怒して反論の上書を送ったという。169年奇襲をかけて東羌に大勝し9000人の首級挙げ功績により新豊県侯に改封された。段熲は生涯併せて180の戦を繰り広げ少なくとも38600の首級を獲り、家畜427500頭を鹵獲した。これにより44億もの費用投じたが、失った兵士は僅か400余りであった。段熲は10年余り任地いたものの、1日として寝室で休むことはなく、常に将士苦しみを共にしていたので、彼の兵はみな死戦を厭わなかったという。170年中央に戻ると重職歴任し179年には太尉にまで昇った。こうして段熲は順調に出世重ねたが、それは宦官通じていた事によるものであった。その為、宦官王甫誅殺されると、段熲も弾劾受けて投獄され遂に自殺追い込まれてしまった。唐の時代には、史館選出した中国六十名将にその名を連ねている(武廟六十四将)。

※この「段熲(?—179年)」の解説は、「涼州三明」の解説の一部です。
「段熲(?—179年)」を含む「涼州三明」の記事については、「涼州三明」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「段熲」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から段熲を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から段熲を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から段熲を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「段熲」の関連用語

段熲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



段熲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの涼州三明 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS