死の裁判官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 11:34 UTC 版)
「ローラント・フライスラー」の記事における「死の裁判官」の解説
人民法廷は、国家反逆罪の被告を裁くため1934年に設置されたもので、後に扱う刑法の範囲が拡大されている。フライスラーの長官就任後、人民法廷の裁判における死刑判決の数が激増し、彼が担当した裁判の9割は死刑あるいは終身禁固刑判決で終わっている。たいてい、判決は開廷前から決まっていた。彼の長官在任中に人民法廷は約5000件の死刑判決を下したが、うち2600件はフライスラー自身が裁判長を兼任する第一小法廷が下したものである。この死刑判決の数は、人民法廷が設置された1934年から1945年の期間中、他の裁判長により下された死刑判決の合計よりも多い。 その裁判は不当なものだった。フライスラーが怒号するように罪状をあげつらう中、被告はほとんど弁護をさせてもらえず、反論も許されない。白バラのメンバーの際の裁判が物語るように、弁護人は形式的に存在するだけだった。フライスラー裁判長は被告とのやり取りで「"Ja"(はい)か"Nein"(いいえ)か!明確に答えろ!」と高圧的に臨み、また被告の言葉の端々を捉え話をすり替えたりして、裁判を被告の不利な方向に持っていった。 とりわけ1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の被告に対する裁判の際は甚だしく、プロパガンダ映画のため記録しようとしても、彼の怒号のせいで被告の声を録音することが不可能なほどであった。特に、ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルトに対するやり取りの映像は有名で、ヒトラー暗殺計画を取り扱うテレビ番組などで非常によく流される。この映画は、あまりにも狂人じみたフライスラーの態度が、国民に被告人らへのシンパシーとナチスへの不信感を抱かせるおそれがあるという理由で公開されることはなかった。また被告の一人エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは法廷でベルトやズボン吊りを外され、衆人環視の中笑いものにされた。ヒトラー暗殺計画の参加者のほか、「白バラ」のメンバーなど反ナチス抵抗運動の参加者たちも彼の不当な裁判で裁かれ、処刑されていった。
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