武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館
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「躑躅ヶ崎館」の記事における「武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館」の解説
晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。 躑躅ヶ崎館は天文2年と天文13年(1543年)に火災に見舞われている。天文2年の火災は『勝山記』に記録されているが、積翠寺郷に屋敷を持つ駒井高白斎『高白斎記』には記されていないことから、規模の小さい火災であったと考えられている。 天文13年の火災は、同年正月に近在の武田道鑑屋敷からの出火し、大風により館に飛び火し、類焼している。武田道鑑は武田信成の弟・公信の系統で、祖父の満信は在京奉公をしていたという。道鑑は歌人としても知られ、躑躅ヶ崎館に近在する屋敷を持っていたことから、家格の高い人物であったと考えられている。 この火災により武田晴信は駒井高白斎屋敷へ一時移っているが、同年2月24日には館へ戻っているため、全焼は免れたと考えられている。『高白斎記』によれば、この火災を契機に館の大規模な改修が行われている。 甲府は要地であったが、1548年(天文17年)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城(韮崎市中田町中條)を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田氏は滅亡する。
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