武田信玄勝頼の時代の躑躅ヶ崎館とは? わかりやすく解説

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武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:36 UTC 版)

躑躅ヶ崎館」の記事における「武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館」の解説

晴信(信玄時代武田氏大きく所領拡大させ、信濃駿河上野遠江三河などを勢力下に収めるが、本拠地一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった躑躅ヶ崎館天文2年天文13年1543年)に火災見舞われている。天文2年火災は『勝山記』に記録されているが、積翠寺郷に屋敷を持つ駒井高白斎高白斎記』には記されていないことから、規模小さ火災であった考えられている。 天文13年火災は、同年正月近在武田道鑑屋敷からの出火し大風により館に飛び火し類焼している。武田道鑑は武田信成の弟・公信の系統で、祖父の満信は在京奉公をしていたという。道鑑は歌人としても知られ躑躅ヶ崎館近在する屋敷持っていたことから、家格の高い人物であった考えられている。 この火災により武田晴信駒井高白斎屋敷一時移っているが、同年2月24日には館へ戻っているため、全焼免れた考えられている。『高白斎記によれば、この火災契機に館の大規模な改修が行われている。 甲府要地であったが、1548年天文17年)には庶民屋敷建築禁止されている等、城下拡大には限界もあったとされるまた、この頃には全国的な山城への居館移転傾向としてみられ、勝頼期に1575年天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配動揺生じ、勝頼は領国体制立て直しのため府中移転企図し、家臣団反対もあったが新たに新府城韮崎市中田町中條)を築き1582年天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施され織田氏甲州征伐結果武田氏滅亡する

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