正徳寺の会見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。 天文23年(1554年)、村木城の戦いで今川勢を破った。 この年も、清洲との戦いは、信長に有利に展開していた。同年7月12日、尾張守護の斯波義統が、清洲方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた。 こうして、信長は、清洲の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた。そして、数日後には、安食の戦いで長槍を用いる信長方の軍勢が清洲方に圧勝した。 天文23年、衰弱した清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清洲城を奪われ、守護代・織田彦五郎も自害を余儀なくされた。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる。 他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している。この死は暗殺によるものであったと考えられる。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという。
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