樽屋の由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 13:12 UTC 版)
樽屋の祖先は刈谷城城主であった戦国武将・水野右衛門太夫忠政である。その子である弥平太忠頼は今川氏に仕え、永禄3年(1560年)6月に討死。翌年に忠政の孫の水野弥吉は徳川家康に御目見えし、16歳の元服に際して家康の一字をもらい康忠と名乗った。家康の生母である於大の方は忠政の娘であるため、康忠と家康は従兄弟同士である。 元亀3年12月(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いにおいて、武田信玄の家臣12人を討取り味方の大久保甚五郎を救ったため、家康から首の数にちなみ、名を三四郎とせよとの上意があったという。また天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、三四郎献上の酒樽が織田信長に進呈され、三四郎が信玄の家臣松平金太夫を討取ったと聞いた信長は、「かの樽三四郎の働きか」と賞した。このため家康は姓を樽に改めるように命じたという。 天正18年(1590年)の家康江戸入りのときの当主が、この樽三四郎康忠である。 樽家の由緒書に「青貝柄の鑓(槍)壱筋、大権現様(徳川家康)より拝領の由申し伝え、代々諸事仕り候」と記されている。この槍は東京国立博物館に寄託された。
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