榊原政永とは? わかりやすく解説

榊原政永

(榊原忠宝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 02:37 UTC 版)

 
榊原政永
時代 江戸時代中期
生誕 元文元年6月1日1736年7月9日
死没 文化4年12月29日1808年1月26日
改名 富次郎(幼名)、政従、政純、忠宝、政次、政一、政永
官位 従五位下式部大輔従四位下侍従右京大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治家斉
越後高田藩
氏族 榊原氏
父母 父:榊原政岑、母:坂田氏
兄弟 政純政永、勝行、勝定、大久保忠由正室、榊原長之室
堀田正亮の娘・
政敦、政晨、政億、政成、職序、稲垣長続、京極高貞、大久保政敏、亀姫、喜連川彭氏正室、内藤正弘正室ら
特記
事項
異母兄の政純の死後に身代わりで家督相続し、公式には同一人物とされた。
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榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名越後国高田藩の初代藩主。官位従四位下侍従右京大夫。榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。

生涯

元文元年(1736年)6月1日、姫路藩主・榊原政岑の次男として誕生。生母は坂田氏。幼名は富次郎。初名は政従。その後、政純(異母兄の名)、忠宝、政次、政一、政永(隠居後)と改名する。

寛保元年(1741年)、政岑は8代将軍・徳川吉宗から強制隠居と蟄居を命じられ、家督は嫡男・小平太政純が継いだが、さらに姫路から高田転封となった。政岑は寛保3年(1743年)に没した。

延享元年(1744年)12月11日、小平太政純が病死した。小平太は兄とはいえ富次郎とは1歳しか違わず、当時数え10歳であった。幼少のため将軍御目見も果たしておらず、世継も定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなかったため、榊原家は幕閣から内密の了承を得て、異母弟の富次郎政従を小平太政純とすり替えることにした。

寛延3年(1750年)10月1日、富次郎は小平太政純として9代将軍・徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下・式部大輔に叙任する。以降、宝暦4年(1754年)従四位下、天明4年(1784年)侍従、寛政元年(1789年)右京大夫と官位を重ねた。

寛政元年(1789年)5月10日に隠居し、跡を次男・政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年12月29日(1808年1月26日)死去。

越後高田藩主・榊原家を祀る榊神社(新潟県上越市

逸話

政永には能楽趣味があり、家臣や領民を城内に招いて見せたが、見せられた側は辟易していたという話がある[1]

年表

官位位階

系譜

父母

正室

子女

  • (長男)
  • 榊原政敦(次男) 生母は園
  • 榊原政晨(三男)
  • 榊原政億(四男)
  • 榊原政成(五男)
  • 榊原職序(八男) - 榊原職武の養子
  • 稲垣長続(十男) - 稲垣長以の養子
  • 京極高貞(十二男)
  • 大久保政敏(十三男)
  • 亀姫、のち幸姫、瑤津院 - 黒田治之正室
  • 喜連川彭氏正室
  • 内藤正弘正室

家臣

  • 岡部八左衛門 - 剣術家

脚注

  1. ^ 黒部亨「榊原政岑と高尾太夫」(播磨学研究所編『世界の遺産 姫路城』神戸新聞総合出版センター、1994年)所収。

関連項目





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