喜連川煕氏
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化9年1月19日(1812年3月2日) |
死没 | 文久元年11月10日(1861年12月11日) |
改名 | 英次郎・金王丸(幼名)、煕氏 |
戒名 | 零光院殿雄山威公大居士 |
墓所 | 栃木県さくら市の龍光寺 |
官位 | 左馬頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
藩 | 下野喜連川藩主 |
氏族 | 喜連川家 |
父母 | 父:喜連川彭氏、母:正室・榊原政永の娘 |
兄弟 | 暉氏、綏氏、煕氏 |
妻 | 正室:毛利高翰の娘 |
子 | 英子(喜連川宜氏正室)、女子 養子:宜氏、紀氏 |
喜連川 煕氏(きつれがわ ひろうじ)は、江戸時代後期の大名。下野喜連川藩の第9代藩主。
生涯
8代藩主・彭氏の三男として生まれる。長兄の右兵衛督暉氏(てるうじ、1797年 - 1821年)、次兄の綏氏(やすうじ、1806年 - 1827年)が相次いで早世したことで、文政11年(1828年)に嫡子となる。文政13年(1830年)11月28日、父の隠居にともない家督を相続する。同年12月15日、将軍・徳川家斉に御目見する。文久元年(1861年)11月10日死去。享年50。
安政5年(1858年)4月、養子の紀氏(細川斉護の六男)は、家督を相続することなく離籍した。なお、細川家に戻った紀氏は長岡護美と名乗り、明治維新期に活躍した。同じく細川家から婿養子として迎えた宜氏(斉護のはとこにあたる)が家督を相続した。
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