楽長就任以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:51 UTC 版)
「ハインリヒ・シュッツ」の記事における「楽長就任以降」の解説
ドレスデンの楽長職について最初の10年間は楽団を組織する仕事に従事できた。楽長としてシュッツは、合唱団と器楽奏者たちからなる宮廷楽団の監督を行った。場合によって政治的な判断さえ行いながら、宮廷の音楽すべてに責任を持ち、教会音楽も世俗音楽も手がけた。しかし彼の手による劇場用の世俗音楽(ジングシュピールやバレエ)は、たいてい台本が印刷されただけで、音楽そのものは失われている。 ドレスデンに移って3年後の1618年、三十年戦争が勃発した。悲惨にもドイツ人口の3分の1以上が失われる結果になったのみならず、ドイツ文化が徹底的に破壊されることになった。1620年代後半になると、戦況の悪化とともに楽長としての仕事は中断され、後の人生はバラバラになった楽団を再編成することに費やされた。しかし残された作品をみると、この時期から以降に充実した作品を次々と発表するようになっている。 ただ、その間に何度かドレスデンを離れた時期がある。1628年にはふたたびヴェネツィアを訪れ、クラウディオ・モンテヴェルディに師事している。1633年に結婚式の音楽を作曲するためコペンハーゲンに招かれたものの、実際にドレスデンに戻ったのは1635年であった。1641年になると、再度デンマークを長期にわたって訪れている。1655年に娘のユーフロジーネが亡くなり、同年、事実上のヴォルフェンビュッテル楽長職を受け入れたこともある。 しかし結局はドレスデンに暮らし、晩年は不幸であったが、受難曲などの作品は円熟し深刻の度を増した。1672年、永年にわたって活動を続けたドレスデンで心臓発作を起こし、87年の生涯を閉じた。
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