極楽寺温泉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 05:51 UTC 版)
温泉地全体を長野温泉と呼ばれるようになったのは昭和初期からであり、元をただせば極楽寺温泉として利用されてきた。 長野村古野(現在の河内長野市古野町)にある極楽寺に温泉を開いたのが起源とされているがその時期については不明である。江戸時代から湯治に来るものを入浴させていたという説があるほか、聖徳太子が古野極楽寺へ病気平癒に来たところ、老翁から「境内の杉の木の根元にある泉を進ずれば病は平癒すべし」とのお告げを受け、その霊水を飲んで病が治ったという伝説が語り継がれている。 現在残っている記録には、朝日新聞掲載の高野鉄道の広告に「新温泉開場 各駅より長野行往復 半ちん」の見出しで「新に発見されたる極楽寺の温泉(長野駅より約弐町)十一月廿五日湯開きの式を挙げ、引き続き毎日施湯を為す」と記されており、広く知られるところでの極楽寺温泉は1906年に開業し、1908年に寺内の湯屋兼備の宿泊施設である三笑館の開館で極楽寺温泉が知られるようになったとされている。 源泉は当時の西条川と三日市川(石川と天見川)が合流する石川右岸にあったとあり、現在の長野温泉の源泉とほぼ一致している。また、藤沢南岳や渡辺霞亭ら文人が訪れたという記録が残っている。1911年までには長野駅周辺に、楠館(長野温泉)、錦水楼(錦水温泉)、一力楼(一力温泉)、菊水館(菊水温泉)が源泉を同じとする温泉旅館が開業されていて、このころから温泉街が形成されていた。 同時期に極楽寺では寺の趣旨にそむくとして、境内にあった温泉場、料理屋をすべて撤去し、周囲の田畑を取り入れて四季の草木を植えた極楽寺遊園が開設し、その後は境内で自家湯程度の利用にとどめるようになった。 その後の大正初期には極楽寺温泉が閉鎖し、源泉は利用されなくなったと同時に温泉街は衰退していった。
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