検察官・司法大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 16:25 UTC 版)
「パーヴェル・ペレヴェルゼフ」の記事における「検察官・司法大臣」の解説
1917年3月に発生した二月革命の後、彼は司法省のペトログラード裁判所の検察官に任命された。クロンシュタットに赴いて、水兵たちに逮捕されている将校らを釈放するという要求をしたが不首尾に終わった。検察裁判所が正式な手続きを踏んで決定したオーダーによってのみ逮捕が可能となるように(それ以外の場合の逮捕者は24時間以内に釈放される)、帝政下で逮捕された活動家について法律的な枠組みを導入を図った。帝政下での官憲の違法行為についての実態調査は、同時に弁護士との面談で、臨時政府が合法的に対応できなくなった事情をも斟酌することとされた。 1917年5月1日(ロシア旧暦4月18日)、ペレヴェルゼフは臨時政府のリヴォフ内閣に、ケレンスキーの後任の司法大臣として入閣し閣僚となった。同年6月、アナーキストたちが元内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォ邸を「搾取者を搾取する」為と称して襲って不法占拠するという事件が起きたが、ペレヴェルゼフは断固として厳しい対応を採り、大掛かりな攻撃を行なっている。同年7月には、ボリシェヴィキによる大規模な武装デモである七月蜂起が起き、臨時政府の本部であるタヴリーダ宮殿にまでデモ隊が押し寄せる事態となった。ペレヴェルゼフは新聞記者らを前に、ボリシェヴィキの指導者であるウラジーミル・レーニンをはじめ幹部たちが第一次世界大戦で対戦中の敵国ドイツから資金援助を受けており、レーニンはドイツのスパイであったとする発表を行なった。この発表はボリシェヴィキの人気をの急落原因となった。臨時政府の幹部であるケレンスキー、ミハイル・テレシチェンコ、ニコライ・ネクラソフらは、ボリシェヴィキの了承を得ないで発表を行なったことを非難している。ペレヴェルゼフはすぐに辞任した後、救護隊を率いて前線に赴いている。 ボルシェヴィキがドイツ政府と特別なつながりがあるとした資料の信頼性についての問題は未だに論争の的となっている。 同業者であり臨時政府では副官としてペレヴェルゼフを支えた仲間でもあるアレクサンドル・ディミヤーノフによると、「ペレヴェルゼフは偉大な夢想家、前もって決めた段取り通りに進行できない無能な指揮者」であるが、「クリーンで誠実な男」であったとしている。
※この「検察官・司法大臣」の解説は、「パーヴェル・ペレヴェルゼフ」の解説の一部です。
「検察官・司法大臣」を含む「パーヴェル・ペレヴェルゼフ」の記事については、「パーヴェル・ペレヴェルゼフ」の概要を参照ください。
- 検察官・司法大臣のページへのリンク