棚田の造成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 06:44 UTC 版)
棚田の形成過程としては、明治前期までは山林を切り開いてまず畑を作り、次に石垣を築いて段々畑として、後に水を入れて水田とする段階的な方式が主であったが、ため池が完成した明治後期からは山林を直に水田とすることもあった。造成を担う「手間講」には石垣棟梁の指揮の下で多くの農民が参加し、地域が一体となって行われた。 石は、八幡岳から掘り出した「金石(かないし)」と呼ばれる硬い黒色の玄武岩や「蜂目石」と呼ばれる多孔質の凝灰岩を用いた。石垣の石は大きなもので直径1m・重さ100 - 200kg程度ある。大きな岩石はたき火で加熱した後水で急冷したり、火薬で発破をかけて割った後、2人がかり、あるいは牛馬に引かせて運んだ。石積みには、鉄挺や玄翁などの道具が用いられた。漏水防止のため、石垣の裏には「裏栗」と呼ばれる小石が敷き詰められた。ただし、裏栗だけでは漏水を完全に防ぐことはできず、毎年、代掻きの後には「畦塗り」と呼ばれる補修作業を行う。このほか、石垣の草刈りを行う際の足場とするため、一部の石をわざと突出させる工夫もされている。 田の土は、玄武岩が風化した赤土を練ったものを厚さ10 - 20cm程度敷き詰めて「盤土」とし、その上に15cm程度の「表土」をかぶせている。地盤の水平を保つため、竹や水を用いた簡易な水準器も用いられた。
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