東照大権現宮宣下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 02:08 UTC 版)
元和2年(1616年)、徳川家康の死去にともない、朝廷は家康に東照大権現の神号を宣下していたが、家光は宮号宣下を朝廷に求めた。正保2年(1645年)、直房は大老・酒井忠勝とともに使者となり、武家伝奏の菊亭経季と交渉した結果、宣下が実現することとなり、同年12月3日に「東照宮」の宮号が宣下された。 直房が10月17日に江戸に帰還して交渉が成功したことの報告を行うと、家光はこの功績により武蔵多摩郡井草村(のち上井草村、下井草村に分かれる。現:東京都杉並区井草、今川など)、上鷺宮村(現在:東京都中野区上鷺宮など)、豊島郡中村(現:東京都練馬区中村)の3か村500石を加増し、今川家の家禄は近江国野洲郡長島村(現:滋賀県野洲市長島)の500石と併せて1000石となった。 直房は4代将軍徳川家綱の代にも活躍し、承応2年(1653年)10月28日には左近衛少将に任ぜられた。万治4年(1661年)1月、大火で御所が炎上したことの見舞いとして上洛したのが最後の京都御使となった。同年(5月に改元し寛文元年)11月24日死去、享年68。市谷の長延寺(現在は、東京都杉並区和田に移転)に葬られた。
※この「東照大権現宮宣下」の解説は、「今川直房」の解説の一部です。
「東照大権現宮宣下」を含む「今川直房」の記事については、「今川直房」の概要を参照ください。
- 東照大権現宮宣下のページへのリンク