本陣・苅部氏
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保土ヶ谷本陣・苅部氏の祖先は後北条氏の家臣で、武蔵国・鉢形城の城代家老を務めていた苅部豊前守康則。 1590年(天正18年)北条家が豊臣秀吉に敗れた時に、康則の子・苅部出羽守吉里も戦死、吉里の子・吉重は先祖の菩提を弔うため信州の善光寺に止まるが、1601年(慶長6年)吉重の二男である初代苅部清兵衛が幕府の命で先祖の領地・保土ヶ谷に戻され、保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命、1870年(明治3年)に本陣が廃止となるまでの約270年11代にわたり三役を務め、歴代当主が苅部清兵衛を名乗ってきた。 1705年(宝永2年)には、6代清兵衛の娘に豪商・紀伊國屋文左衛門の二男を入り婿に迎え(7代目清兵衛吉一)、その持参金で本陣の借財の返済に充てたと言われている。 10代当主・苅部清兵衛悦甫は初代横浜総年寄を任命され町の行政を担い、横浜港開港、横浜道の開発に大きな役割を果たし、吉田勘兵衛、高島嘉右衛門とともに横浜三名士といわれた。 明治元年の明治天皇東幸時に姓を「苅部」から「軽部」に改称、現在も同地に居住している。11代清兵衛悦巽も、保土ヶ谷宿の三役と横浜町の総年寄を務めた。清兵衛の孫娘・タマは、昭和天皇の乳母をつとめている。
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