朝顔愛好家による黄蝉葉「団十郎」の歴史認識
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「団十郎朝顔」の記事における「朝顔愛好家による黄蝉葉「団十郎」の歴史認識」の解説
東京朝顔研究会副会長であった須田新次は、『世界大百科事典(1988年版)』の「アサガオ」の記事内で団十郎朝顔について以下のように述べている。 文化・文政年間、嘉永・安政年間(1848 - 60)に熱狂的に栽培された変化アサガオは、1885年ころから1935年ころまで再びブームを迎え、盛況をきわめたが、一方では徐々に大輪咲きの栽培熱が盛り上がり、現在では変化咲きは大輪咲きに押されて、衰微の一途をたどり、少数の愛好家によってわずかに品種の保存がはかられているにすぎない。これまでアサガオの歴史といえば、珍花奇葉の変化アサガオのことが主であり、嘉永・安政年間に9代目市川団十郎にちなんで命名された濃柿茶の〈団十郎〉は、当時の大輪花の代表的なもので、現在でも作られている。 これは愛好家が栽培している黄蝉葉「団十郎」について述べた物であるが、誤りが多い。嘉永・安政年間に活躍していたのは八代目市川團十郎であり、九代目市川團十郎が團十郎を襲名したのは明治7年(1874年)である。これまで述べてきたように、「団十郎」という朝顔が誕生するのは明治時代に入ってからである。また、蝉葉の大輪朝顔が誕生するのは明治末期以降であり、黄蝉葉の「団十郎」が生まれるのはさらに下って大正時代以降である。前者と後者の朝顔に茶系統の花色で名前が同じという以外の関連性は無い。このように1980年代末には、朝顔愛好家の間でも「団十郎」の歴史認識に混乱があり、蝉葉の大輪朝顔の歴史自体の認識も失われていた。
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