有間皇子の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 17:46 UTC 版)
斉明天皇4年(658年)に天皇が紀温湯(温泉)に旅行した際、赤兄は都の留守官になった。その留守の11月3日、赤兄は、有間皇子に「天皇の政治には三失がある。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ目、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ目、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ目である」と言った。有間皇子は赤兄の接近を喜んで、挙兵の意思を告げた。5日に有間皇子と自宅で密議したところ、脇息が折れたため不吉だということになり、陰謀を止めることを互いに誓った。有間皇子が自宅に帰ったその夜、赤兄は物部朴井鮪に命じて宮殿造営の丁を率いさせ、市経にあった皇子の家を囲ませ、駅馬で天皇に急報した。捕らえられて9日に中大兄皇子(後の天智天皇)の尋問を受けた有間皇子は、「なぜ謀反しようとしたのか」と問われて「天と赤兄が知る。吾はまったく知らない」と答えた。有間皇子は11日に塩屋鯯魚、新田部米麻呂と共に処刑され、守大石と坂合部薬(境部薬)は流刑になった。 『日本書紀』は上述の話のほかに「或本にいわく」として別の話を載せる。それによれば、有間皇子と蘇我赤兄、塩屋小戈、守大石、坂合部薬は短籍で謀反を占った。有間皇子は挙兵計画を語ったが、ある人が皇子はまだ19歳なので早すぎると諫めた。別の日に皇子が一人の判事と相談していたとき、皇子の脇息が折れた。それでも皇子は中止せず、ついに誅戮された。 この事件について現代の歴史家の間には、中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説がある。
※この「有間皇子の変」の解説は、「蘇我赤兄」の解説の一部です。
「有間皇子の変」を含む「蘇我赤兄」の記事については、「蘇我赤兄」の概要を参照ください。
有間皇子の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/13 10:17 UTC 版)
『日本書紀』によれば、斉明天皇4年(658年)11月3日と5日に、斉明天皇と皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)が紀温湯に行った留守に、有間皇子は都で蘇我赤兄と挙兵を相談した。書紀は「ある本には」として、有間皇子、蘇我赤兄、塩屋鯯魚(塩屋小戈)、守大石、坂合部薬が、短籍(籤)で謀反を占ったという話を伝える。 ところが5日の夜に赤兄は有間皇子の家を囲ませ、天皇に事を急報した。9日に有間皇子、守大石、坂合部薬、塩屋鯯魚は捕えられ、紀温湯に送られた。11日に有間皇子は殺され、坂合部薬は尾張国に流された。 壬申の乱で活躍したことから、坂合部薬が後に赦されたことがわかる。そこで現代の学者の中には、坂合部薬はもともと赤兄と共に有間皇子を陥れようとしたのだと推測する者がある。ただこの場合、そもそも罪とされなかった赤兄との処分の違いについては説明されない。
※この「有間皇子の変」の解説は、「境部薬」の解説の一部です。
「有間皇子の変」を含む「境部薬」の記事については、「境部薬」の概要を参照ください。
- 有間皇子の変のページへのリンク