暴虐な君主として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する。この時代には「無道秦」 や「暴秦」 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった。 唐代の詩人・李白は『国風』四十八 で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。 阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」 という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった。
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