昆陽時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 02:54 UTC 版)
寛政6年(1794年)、高木喜左衛門の娘の豊を娶り、志太郡小屋敷村(焼津市小屋敷)に新居を構え、分家した。翌年には長女の阿佐が生まれた。昆陽堡・昆陽蚕室と名付け、自らは昆陽山人等と号した。「昆陽」は、「小屋敷」を漢風にいったもの。寛政8年(1796年)東海道を下る琉球使節に遭遇している。寛政9年(1797年)これまでの詩を「於陵樵唱」にまとめるが、出版には至らなかった。次々に子を儲け身を固めながらも、足繁く江戸に通って文人と交遊している。この時期の詩文や烟霞都尉の号からは、官職もなく田舎暮らしに甘んじている鬱屈した思いが伺える。 文化2年(1805年)頃、本居宣長門下の村松春枝と交わり、国学の分野で研究が進んでいた音韻学に影響を受けたとされるが、それ以前から宣長の『玉勝間』『字音仮名用格』『漢字三音考』等の著作に啓発されていたとも考えられる。 文化4年(1807年)の江戸滞在中には、服部季璋と深川祭へ向かう所で永代橋落橋事故という歴史的場面に遭遇した。
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