昆布の土地闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:14 UTC 版)
朝鮮戦争のさなか、米軍は更に沖縄の土地を強制接収し基地化を進めていった。この時期の米軍による沖縄の土地の暴力的な接収を「銃剣とブルドーザー」とよぶが、さらにベトナム戦争の時代にも接収を続けていった。 1965年12月、米軍は具志川村(現在のうるま市)昆布の土地約2万1千坪、8万2000㎡を接収することを住民に通告した。物資補給と貯蓄のため天願桟橋の基地強化を望んでいた。 1966年、米軍の土地接収に反対する住民は「昆布土地を守る会」を結成し、米軍のパラシュートでつくった闘争小屋を作って抗議行動をおこなった。地主のなかには戦争で夫や子どもを亡くした女性たちも多く、「土地を奪われては生活ができない」と立ち上がった。女性たちは赤ん坊をせおって、子どもを抱いて見張り小屋につめた。小屋も、襲撃されたり、何者かに放火され全焼する事件もあったが、建てなおし、また座り込んだ。全国から支援の声や差し入れも届いた。 1971年8月31日、17回も接収期限を延長していた米軍は、ついに断念し、桟橋の背後地(約69,000㎡)を返還した。沖縄で愛される歌「一坪たりとも渡すまい」は、昆布の土地闘争の中から生まれた。 「銃剣とブルドーザー」を参照
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