旭廓から中村遊廓への移転と繁栄とは? わかりやすく解説

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旭廓から中村遊廓への移転と繁栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:10 UTC 版)

中村遊廓」の記事における「旭廓から中村遊廓への移転と繁栄」の解説

中村への移転決定すると、その移転地につき名古屋土地株式会社と旭廓土地株式会社との間に土地31620坪(104346平方メートル)の売買契約締結1920年大正9年3月から整地着手、119700余円を投じてできあがった組合事務所現在のピアゴ(旧ユニー中村付近)を中心として娼家群の新装成り開業したのは1923年大正12年4月1日であった。またこの日から「中村遊廓」または「中村旭廓」と称せられるようになった。ただし当時新聞記事によると、4月1日一斉移転できたわけではなく一部業者移転未了のままのスタートだった。新生中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿町ことぶき)・大門おおもん)・羽衣はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)または五丁町ごちょうまち)と呼ばれた遊廓移転後遊客数・遊興金額一人あたりの遊興金額とも増加してゆき、1925年大正14年)の遊客数は755940人(一日あたり2071人)を数えた。しかし全盛極めたのは、1937年昭和12年)頃で、娼家138軒または147軒、娼妓2000人、一軒抱え娼妓1330余人数え日本最大級遊廓となっていた。ちなみに厚生省調査によれば昭和12年当時全国娼妓総数44908人であり、全国4.5%の娼妓中村集中していたことになる。また、名古屋新聞によれば1934年松の内3日間の登楼者は2万7624人、娼妓1700であった昭和3年昭和8年には京都嶋原からその道専門家招いて花魁道中催し挙行した。県下はおろか他県からも見物客押し寄せ未曾有の盛況呈した当時、「中村遊興代の高いことに於て日本一」と云われ、昭和7年時点で、一流あたりで1時間2円50銭くらいだった例祭として、夏の提灯祭り正月門松があった。

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「旭廓から中村遊廓への移転と繁栄」を含む「中村遊廓」の記事については、「中村遊廓」の概要を参照ください。

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