旧・亀島新田エリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 01:08 UTC 版)
亀島・亀島新田・連島中央・神田の住所が該当。連島山塊中部の矢柄の南方に広がる平地で、近世の干拓地である。地区南端部に亀島山という丘(標高約30m)があり、かつては島であった。現在は水島工業地帯の造成や道路建設のために形を崩しているが、以前は亀のような形をしていた。地名もこの山に由来したもの。 連島が島から陸続きになった後、連島は東西高梁川の河口部となったため、連島の南には広大な干潟が生まれた。延宝2年に倉敷支配所代官がこの干潟を18町歩干拓し、翌年に28町歩を干拓。ついで延宝6年には、成羽藩山崎氏が倉敷の許可のもと150町歩を干拓。これらの干拓地を併せて、南端部にあたる亀島の名を取り亀島新田村(かめじましんでんそん)と称し、元禄10年に成羽領分となり、明治に至る。 『備中村鑑』では、浅口郡亀島新田村として幕末頃の石高を約8千石としているが、これには鶴新田(後述)が含まれている。 明治22年6月1日に連島村から別れた矢柄村・北面新田村の旧矢柄分の一部と亀島新田村とが合併し、村制による亀島村(かめじまそん)を新設した。同36年1月1日には亀島・西之浦・鶴新田・連島の4村が合併し、連島村(のち連島町)を新設した。 当地東部の東高梁川河口部の廃川地が市街地として整備され、さらに南側の干拓埋立地に水島工業地帯が造成されると、亀島新田は大型道路が整備され、宅地・事業所・商店が多く立地し人口が急増。住所表記も改められ、新たな大字として亀島1〜2丁目・神田1〜3丁目、連島中央1〜5丁目などが設置され、亀島新田の地名は矢柄との境界付近にわずかに残るのみである。
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