日野の渡しとは? わかりやすく解説

日野の渡し

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 17:54 UTC 版)

日野橋」の記事における「日野の渡し」の解説

江戸時代初期五街道ひとつとして整備され甲州街道当時甲州海道)は、当初府中分倍河原から多摩川低地通り多摩川万願寺(現日野市)で渡っていた。しかし、多摩川氾濫街道分断されたことにより、街道河岸段丘の上の現甲州街道移された。それと共に1684年貞享元年)、それまで多摩川対岸柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道正式な渡しとして決められた。現在の立日橋(たっぴばし)の下流位置にあたる。 渡し有料で、人と馬の料金それぞれ定められていた。僧侶武士、そして宿の人々無料利用ができた。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場収入源ともなっていた。渡し多摩川冬期渇水期には土橋使われ3月から10月までは船によって行われていた。江戸時代後期1824年文政7年)からは通年船による渡し改められている。使用した船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船長さ11.8m、幅2.7m)2艘があり、渡し賃資料によると、延享年間(1744〜48)の一人3文から4文、文政7年(1824)には10文、天保5年1834)には13文、慶応4年1868)には30となっていた。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金があった。江戸時代終わり明治になると、渡し経営宿場から町へ移され毎年入札により決められ請負人渡し船運行し定められ一定額を町に納入する方法となった1889年明治22年甲武鉄道(現JR中央線)が開通する渡し通行量減少し始め、さらに大正時代入り自動車輸入され通行するうになるがないことが問題となった。「馬船2艘並べその上に横に長い板を敷き並べその上に自動車乗せて対岸運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのある。

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日野の渡し

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:29 UTC 版)

日野宿」の記事における「日野の渡し」の解説

日野の渡し(ひののわたし)については日野橋記述参照

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