日産への就職、レース車のサスペンション設計
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「渡邉衡三」の記事における「日産への就職、レース車のサスペンション設計」の解説
大阪府出身。東京大学工学部機械工学科(船舶機械工学を学ぶ)を卒業後、修士課程(修論は自動車工学)を経て、1967年(昭和42年)4月、日産自動車のプリンス事業部への就職を希望し、入社。(前年の8月に、プリンス自動車工業は日産に吸収合併されていた。) 大学時代には、1963年(昭和38年)の第1回日本グランプリを観戦し、プリンス車が惨敗するところも見、さらに就職の前月には、欧州でF1も観戦した。 元々ブラバム等のレーシングカー設計会社への就職が夢だった事もあり、日本でレースを積極的にやっている会社はどこかと考えた時、ではR380でレース活動を行っている日産のプリンス事業部をと希望し、希望が叶った。配属先はプリンス事業部(荻窪)の第一車両設計部第二車両設計課であった。 そこの部署の二人いる課長の一人が桜井眞一郎であり、その下で主任としてシャシー関係のとりまとめをしていたのが、後に渡邉の前任者として将来、8代目スカイライン(R32型)の開発責任者(主管)を務める事になる伊藤修令であった。 桜井に「レース車の設計をやりたいのですが」と話したところ、「きみ、まず生産車を勉強してからじゃなきゃ、レース車なんて造れるわけないよ」と言われたという。とは言え、3代目スカイライン(ハコスカ)のGT-Rのレース車用サスペンションの設計等も、徐々に任されるようになり、R381やR382のサスペンションの設計にも関与した。
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