日本堤の地理と地名の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 07:55 UTC 版)
かつてこの一帯は入間川(現:隅田川)の氾濫原に当たり、石浜(現:石浜神社付近)から真土山(現:待乳山本龍院)、浅草(現:浅草寺付近)、鳥越岡(現:鳥越神社付近)の高台からなる自然堤防の背後の広大な後背湿地だった。この湿地帯は忍ケ岡(上野山の古名)のふもとにまで及び、度重なる洪水によってなかなか陸化せず、当時の図絵に千束池や姫の池などとして見える。 江戸市街も常に氾濫の危険があったが、江戸幕府による荒川をはじめとする治水事業により元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から北西方向へ箕輪浄閑寺にかけて堤防が築かれた。 全国の諸大名により60余日で完成したため日本堤だともいうが記録がなく確証が薄い。また土手が二本あったから「二本堤」という説もあるが、これも場所が特定できていない。山谷堀はこの土手の北側にあり、石神井用水から分かれた音無川など上流部からの排水路として機能していた。 土手上は周囲を見渡せる見通しのよい街道(6町余りの長さがあったことから土手八丁と呼ばれた)として利用された。明暦の大火の後に土手南側に人形町から遊郭が移転し吉原となってからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。 関東大震災から4年後の1927年(昭和2年)、日本堤は取り崩された。現在は土手通りとして痕跡を留めている。
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