日本外交使節の米国訪問
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「ジョサイア・タットノール」の記事における「日本外交使節の米国訪問」の解説
続いてタットノールは、日米修好通商条約の批准書の交換のためワシントンに赴く日本の使節団を迎えるため、日本に向かった。開港したばかりの横浜に1859年9月に到着したが、横浜には8日ほど停泊しただけで、上海に向かい、また横浜に戻る(これは日本と諸外国の金銀交換比率が異なることを利用して、利益を出すためだったと言われている。幕末の通貨問題参照)。1860年2月13日(安政7年1月22日)、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せ横浜を出港した。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、補給のためにホノルルに寄港。サンフランシスコには3月28日に到着した。ポーハタンはパナマ地峡経由で東海岸に向かう日本使節団をパナマまで送った。タットノールはサンフランシスコでポーハタンを降りたが、郵便船に同乗してパナマに先回りし、日本使節団を迎えた。
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