日本人の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:18 UTC 版)
山本実彦は「この倉庫に支那兵が籠らぬように、支那資本家はたいへんな賄賂を彼等に贈ったのであったそうですが、それでも彼等は八百の正規兵をここにいれたのでありました。この八百名の支那兵の奮戦するさまを川向ふの支那人は平氣で見物してをつたのでそうです。ところが、四行倉庫が陥落し、我軍の哨兵によつて守らるるやうになつてから、支那の子供たちは、河向ふから夜となく晝となく我哨兵めがけて石を投げるとのことでありました。」と記した。 野上彌生子は「取りわけ一箇月近くも攻撃の的となり、ニュース映画にも度度現れた四行倉庫が、わづかに砲弾の跡を留めただけで、暗赤色の壁上に白く、太太と、支那人らしい上手な文字で書かれた名前を浮きあがらせて突つ立つてゐるのを見た瞬間、驚き以上のものが脊筋を冷たくしました。そんな事があつてはならないし、又決してあり得るとは、夢に信じないけれども、どうかして私たちの愛する故国の木材で拵へた都市が、似たやうな危険に曝されたと仮定して、私たちは破壊された壁の一つ、柱の一本でも、戦跡として巡礼するに足る記念を残すことが出来るでせうか。東京を立つ前に丁度行はれた防空演習で、人真似にもんぺいを穿いて並んだり、門口にバケツを置いたりすれば、それで済んだつもりになってみる一部の人たちの呑気さが今更に怖ろしくなりました。」と記した。 西川光は「私は映畫『上海』のフイルムの一齣を、はつきりと記憶してゐる。上海市街戦で、最も激烈な戦闘だつた四行倉庫の、砲弾に破壊された壁の大きな穴から撮影された場面で、穴の上を、英國の警備兵が煙草をふかしながら、呑氣な顔付をして四、五人、行つたり来たりして、警備してゐるのである。しかも、この四行倉庫を陣地として、日本軍に抵抗した支那兵に、英國兵が糖食を供給してゐた事實を、カメラは歴然と撮影してゐた。その上、支那兵は脱出に際しても、英租界へ脱けて行ったのであるが、それを英國軍は黙許したばかりでなく、援助さへしてゐるのである。」と記した。
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