日本における自由詩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 17:08 UTC 版)
日本の詩作においては、欧米の定型詩に比べてそもそも伝統的な韻律や複雑な詩形が存在していなかったため、「自由詩」の持つ意味は欧米のそれとは異なる。 日本の場合は従来の「七五調・五七調」といった旧来の音律数から脱却する動きが自由詩の始まりとされる。明治時代に始まった新体詩は、それまでの和歌(五七五七七)や俳句(五七五)、あるいは漢詩といった定型から離れようとする動きであったが、新体詩でも七・五といった従来の音律数は残ったままで、かつ従来同様に文語が用いられていた。 こうした中、1907年(明治40年)に発表された川路柳虹の口語詩「塵溜」は、新体詩の定型からも脱却し、かつ日常語の感覚を取り入れた作品であり、ここから日本における自由詩(口語自由詩)が始まったとされる。川路の試みは当初は賛否両論を引き起こしたが、やがて支持が拡大し、数年のうちに追随者が続出して日本の詩人の大多数が口語自由詩の形式を取るようになった。相馬御風、河井醉茗、服部嘉香らが口語自由詩の推進者として挙げられる。 大正時代に入り、萩原朔太郎の出現により日本の自由詩は完成したとされる。萩原は『青猫』附録の論文「自由詩のリズムに就て」で、 我我は「拍節本位」「拍子本位」の音樂を捨てて、新しく「感情本位」「旋律本位」の音樂を創造すべく要求したのである。 — 萩原朔太郎、『青猫』所収「自由詩のリズムに就て」、青空文庫より と述べ、「旋律的な美」が「自由詩の境地」であるとしている。
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