日本における毒見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:46 UTC 版)
平安時代には薬子(くすりこ)という毒見役があり、宮中で元旦の屠蘇などの毒味をしていたという。また、毒見は「鬼食ひ」と呼ばれていた。 江戸時代の寛文6年(1666年)、仙台藩の幼藩主伊達綱村は数え8歳の時に毒殺されかけたが、毒見役の働きによって難を逃れている。 徳川将軍家では「御膳奉行」が毒見をし、問題がなければ運ばれ、最終的に小姓が毒見をするという二重の毒見制とされる。 磯田道史の古文書研究による解読によれば、近世期の毒見役とは毒見をする係ではなく、毒見をさせる係であり、その毒見をさせられたのは調理担当者と御膳を運ぶ者とされる。 近代皇室では侍医長が御試食(おしつけ)として事前に天皇に出させる食事の毒見を行なっていた。現在でも行なわれているが検食に近く、栄養管理が主目的である。 西南戦争において西郷隆盛の料理番となった平田源吉という人物は、元々は鹿児島城下の鰻屋であったが、その正直さをかわれて料理番となり、自ら毒見をした。
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