日曜日の流血
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「日曜日の流血」の解説
翌1991年1月7日には、徴兵忌避者の捜索を口実として、連邦国防省(ロシア語版)は三国へ軍の投入を通告。そしてついに11日から13日にかけて、ヴィリニュスの戦略拠点をソ連軍が襲撃し、14人の死者が発生した(リトアニア血の日曜日事件)。続く20日にはリガにもソ連軍の攻撃が加えられ、6人の死者が発生する事態に至った(ラトビア血の日曜日事件(英語版))。 この非常事態の最中、12日にリューテルとエリツィンの両国最高会議議長は、モスクワでエストニア=ロシア間の基本条約に調印した。だが、ヴィリニュスが襲撃された13日には、エストニア国境の街ナルヴァにもソ連軍の戦車隊が集結し始めていた。しかし、タルトゥの空軍戦略爆撃機部隊司令官ジョハル・ドゥダエフ少将は基地へのソ連軍機の着陸を禁止し、エリツィンに対しエストニアを訪れるよう進言した。結果、同日にはエリツィンもタリンを訪問し、バルト三国とロシアの主権確認に関する共同声明によって三国への支持を表明した。エリツィンは駐留ソ連軍に対し実力行使をやめるよう警告し、またヴィリニュス襲撃の報を耳にしたタリン市民が放送局などの防御を固めたため、ソ連軍がタリンを襲撃することはなかった。
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